※このエントリーは「3 Models Underlying Assumptions About Disability | Psychology Today」をざっくり翻訳したものです。
障害に対する考え方として「医学的モデル」と「社会的モデル」が対比されて語られることは多いですが、この記事で指摘されている「道徳的モデル」という視点は見逃してはならないように思います。なにしろ歴史が圧倒的に長いわけですからね、そうそう消えることはないでしょう。ここのところネットで可視化されている障害者に対するネガティブな言説にも、その根底には少なからずこのような考え方があるような気がします。
障害とは、どこから生まれてくるものなのでしょうか?
また、障害にまつわる課題は、どこからきて、どのように解決すれば良いのでしょうか?
専門家は障害についての考え方を、道徳的、医学的、社会的という3つのモデルに分類しています。そして私たちの障害に対する考え方は、メディアの描写に反映され、それによってさらに強化されているのです。
道徳的モデル
このモデルには、障害者やその家族に障害に対する道徳的な責任があるという観念が含まれています。道徳的モデルでは、障害は罪に対する罰、内面的な悪の表現、呪い、あるいはカルマの結果であると考えられています。いまだに障害者が隠匿され、家庭内の秘密にされているという風習があるのはそのためです。
道徳的モデルは時代遅れの考え方のように思われるかもしれませんが、私たちの文化の中にはこのモデルの痕跡が今でもしっかりと残っているのです。
最近では、映画「The Witches」に登場する魔女が、両手に3本の指、両足に1本の指という、四肢に障害のある姿として描かれ、障害者団体から非難されました。魔女の手足は、外反母趾などの手足の不自由さをCGで表現しています。
Roald Dahlの原作では、魔女は「猫のような」爪を持っていると表現されており、1990年の映画では、5本指の手に長く尖った爪を持っている姿として描かれていました。
では、なぜ新しい姿になったのでしょうか?
Warner Brosはその声明の中で、新作を制作するにあたり魔女の外観を再構築するため、デザイナーを招き入れたと語っています。そしてGrand High Witchを演じるAnne Hathawayは、魔女の外見と障害との間に関係はなかったとコメントしました。
映画製作者がこの問題を意識していなかったのは本当かもしれません。 しかし、障害者コミュニティに対するわずかな調査と意見を取り入れれば、これが怠惰で有害な比喩の再生産であることが分かったはずです。David Garcia博士のような四肢に障害のある人々は、「#notawitch」というハッシュタグでこの問題に反応しています。
ハリウッドには、身体的な障害を悪役の象徴として採用してきた長い歴史があります。ワンダーウーマンのドクター・ポイズン、フレディ・クルーガー、ジョーカー、そして007に登場するほとんどの悪役の姿を思い出してみてください。ライオンキングの「スカー」とピーターパンの「フック船長」は、その身体的な違いからその名前がつけられました。
このような描写は、目に見える障害と「悪」との文化的な結びつきのイメージを固定します。障害のある活動家たちはメディアに対し、より現実的な表現をするよう提唱し続けています。
医学的モデル
医学的モデルは、西洋文化における障害に対する最も一般的な考え方です。この考え方は、障害を身体または精神の異常の直接の結果であると見なしており、それを治療することが唯一の目的とされています。医学的モデルは、痛みを伴う症状を治療するための貴重な技術革新を提供します。
しかし、このモデルでは、障害に関する問題を障害者の中に置き、障害を治療する責任は障害者とその家族、そして一部の医療専門家に限定しています。障害者をサポートする責任を一部の人に限定することは、障害が人間の共通の経験ではなく、例外的なものであるという考え方を固定します。
医学的モデルは一歩前進した考え方ではありますが、社会的な要因を考慮しない限り、障害に対する理解は深まりません。
社会的モデル
多くの障害活動家や学者は、ノーマリティを定義し構築する上で、社会の役割を重要視しています。社会的モデルは、障害の主な原因は社会にあり、問題は個人ではなく社会にあると定義しています。
人間の多様性に社会が対応できていないことが、障害体験の原因とみなしているのです。障害が発生するのは、全ての人々が文化的に定義された規範に沿って機能するという前提で社会が設計されているためです。
例えば、近視や遠視といった屈折異常はアメリカ人の半数以上が持っている障害ですが、私たちはそれを「障害」とはみなしません。
矯正レンズを使用することが障害とみなされない理由を学生に尋ねてみると、たいていは「メガネやコンタクトは簡単に作れるから」と答えます。しかし、レンズははじめから簡単に作レたわけではありません。社会がそのためのリソースを割くように変化したためです。実際、メガネは13世紀に開発された最初の支援技術とも言われています。矯正レンズは、一般的で、効果的で、安価であるため、現在では簡単な装備品のように見えます。
私たちの社会は平等を重んじています。一般的であるかそうでないかに関わらず、より多くの人々のバリエーションに対し行動することができますし、そうすべきです。
障害者はそうでない人々と比べ、社会モデル的な視点を持っている可能性が高いと言われています。その理由は、古典的な社会心理学の概念に基づいています。
「アクターオブザーバー効果」とは、状況の力が自分の行動を形成していることを認識できても、他人の同じ行動を観察した場合、環境の役割を認識できず、「その人はそういう人だからそういう行動をとっている」と思い込んでしまう現象を示しています。
例えば、会議に遅刻した人を責める場合、その人の属性(責任感がない、時間にルーズ)を原因として考えてしまいます。一方、あなたが遅刻した場合、状況的な要因(朝に子供が熱を出した、交通事故で足止めされた)を認識できる可能性が高くなります。
障害者についても同様です。
障害者は、社会的・環境的な障壁を容易に認識することができます(例:身体障害者の雇用を妨げる大きな要因は、アクセス可能な職場がないことである)。
しかし観察者である障害のない人は、問題がその人に固有の特徴に起因するものであると思い込んでしまうのです(例:障害者を怠惰もしくは無能者と見なす)。
インクルージョンに向けて
障害に関する私たちの基礎的な捉え方は、障害者に対する私たちの態度や行動の前提となります。
道徳的なモデルの考え方は、障害者に対する恐怖や嫌悪感を永続させ、障害者を社会から隠したり、分離したりする決定(例:保護されたワークショップ、分離された特別支援教育)の根底となっている可能性があります。
医学的モデルは、障害に対する唯一の解決策が「治療」であるという考えを強調します。しかしこの考え方では、障害者もそうでない者も「治療法がないものは失敗である」と捉えてしまいます。
社会的モデルでは、アクセシブルでインクルーシブな世界を実現するため、社会に変革の責任を負わせます。
障がい者は、人口の26%を占める米国最大のマイノリティグループであるにもかかわらず、テレビや映画などのメディア全体では、障害者の存在感が最も薄いと言われています。例えば、2019年から2020年のシーズンでは、テレビの登場人物のうち、障害のある者はわずか3%でした。また障害のあるキャラクターがいても、たいていは障害のない者が脚本や演出を担当するため、不正確でステレオタイプな描写にな離がちです。
しかし、有望な例外もあります。例えば、脳性麻痺のあるRyan O'Connellは、Netflixのドラマシリーズ「スペシャル 理想の人生」の脚本、制作、主演を務めました。メディアで障害者を複雑な人間として表現することは、インクルーシブな社会を形成する上で非常に重要なのです。
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