2018年8月24日金曜日

「合理的配慮」について、ふと思ったこと。


世間は障害者の法廷雇用率水増しの件で揺れまくってますね。
この件についてはひとまず調査結果を待ちたいところですが、どうなりますことやら。筆者も1年弱、障害者枠で職探しの経験があルため、事の成り行きに注目せざるを得ません。ちなみに面接まで進めたのは1社のみでした)もちろん不採用)。

で、障害者雇用を考える上で避けられないのが、2016年4月に施行された障害者差別解消法。この法律で、公的機関が障害者を雇用する際に合理的配慮を義務付けられました)民間企業は努力目標)。
ただ、そもそも「合理的配慮」、ひいては「配慮」とは何を指すのか。このテーマは各所で深く議論されているのでここでは迂闊に語りませんけど、「配慮」について個人的に思いついたりしましたのでつらつら書いてみようかなと。

石川准先生の言葉をお借りすれば、現状の社会は健常者への配慮が十分に足りている状態であり、一方で障害者に対する配慮が不足している。これを埋めるのが障害者差別解消法で定められた「合理的配慮」という考えです。筆者もこの考え方に同意します。
これは国連の障害者権利条約の基本的な理念である「障害の社会モデル」に通じる考え方。要するに、障害者の暮らしづらさ・働きづらさは障害者個人にあるのではなく、障壁(バリア)を放置している社会システムに起因するということですね。
この考え方は障害者研究周りでは浸透していると思うのですが、社会一般にはまだまだ知られていないな、というのが正直なところです。

さて、ここまでのくだりで個人的に興味を覚えたのが「健常者はすでに配慮されている」という考え方です。どういう状況だろう?とぼんやり考えてみると、一つ思い当たるフシがありました。
筆者はほぼ全盲の視覚障害者で、普段は家族と同居しているのですが、デスクにずっと張り付いて作業していると、いつの間にか日がくれていることがよくあります。
そういう状態で、家族が仕事部屋に入って来ると、もちろん真っ暗で驚かれる。
驚かれるので、以降はできるだけ時間をチェックして照明を点けるようにしたのですが、これはつまり「全盲者が晴眼者に配慮」している状態では無いか。
似たようなエピソードで、少し前に故・永六輔さんが知人の全盲夫婦が、晴眼者を自宅に招く際に冗談混じりに「めあきが来るよ」と照明を灯す、とラジオでお話していたのを思い出しました(ディテールの違いはご容赦)。
このシチュエーションを拡張すれば、例えば地下鉄構内や夜間の照明は「晴眼者への配慮」と言えなくもありません。
駅構内で言えば、照明は晴眼者、点字ブロックや誘導音響は視覚障害者への配慮、ということですね。配慮と聞くと「社会的弱者のためのもの」と考えがちですが、見方を変えると、あらゆる人は配慮されていることに気がつきます。
まあ若干強引な例えだと自覚はしているのですが、障害の有無に関わらず、全ての人々は何かしらの配慮を受けて生活している、と考えれば「合理的配慮」ということばも腑に落ちやすくなるのでは無いかな?となんとなく思った次第です。

まとまりなくてスミマセン。
ドットはらい。


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